小説

               親鸞についての覚え書き』                                                                                       



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ア、ソレ愚禿親ランノ
 生マレヲツラツラ慮ヘルニ
ドウヤラ貧乏ニンゲンノ
 スコシオロカナ子ナリケリ
世ニツタワリシ身ノ上ハ
 ミンナ虚妄ニアリヌベシ
           (吉本隆明親鸞和讃』上段)



 「範宴(はんねん)が行の途中でまた倒れたそうです」
導師のひとりからそう告げられた天台座主慈円は口もとに運びかけていた朝がゆの椀を静かに膳の上に置いた。
 「それはいつのことだ?」
 「本日未明、横川常行堂にて、巡回中の僧兵が発見しました」
端正な慈円の顔が曇り、かすかな溜息がもれた。
 「で、範宴は見仏を果たしたのか?」
 天台宗一乗止観院(延暦寺)の修行は見仏発得(けんぶつほっとく)、すなわち仏の姿を実際に眼前に見ることを最終的な目標にしている。慈円は修行者がそれを達成したかどうかを尋ねたのだった。だが、それを報告者に問う慈円の眼はなぜか怒気を含んでらんらんと輝いていた。座主の意外なほどの語気の鋭さに導師は畏れおののいた。
 「はっ。それが…」
 口ごもる相手の言葉を最後まで聞かずに慈円は立ち上がった。
 「範宴はいまどこにおる!」
 世情不安のため、警護をかねて最近は座主の朝食の席にも同座するようになっていた側近たちはあわてた。日頃物静かな座主に似合わない剣幕だった。
 「範宴は心身ともに衰弱はなはだしく、聖光院の一隅に移して手当てをしておりますが、いまだ意識は朦朧とのことです」
 「虚仮!」
 吐き捨てると、慈円は畳を蹴るようにして青蓮院食堂(しょうれんいん じきどう)を出た。お付の僧たちがあわてて朝餉(あさげ)を中断し、座主のあとを追う。
 範宴とは、後の浄土真宗開祖、親鸞(しんらん)の比叡での童名である。
 二十年前、慈円が弱冠、二十七歳にして天台阿闍梨(てんだいあじゃり)の地位にあったとき、歌人として付き合いのあった日野範綱から懇請(こんせい)されて弟子として預かったのが親鸞だと後の伝記は伝えている。
 だが、慈円の直弟子といっても当時の比叡における師と弟子の関係は今日わたしたちが考えるほど親密な関係ではなかった。とりわけ中世において南都北嶺(なんとほくれい)の寺院の僧侶は主として家督(かとく)を継げない公家や武家のニ、三男坊たちの吹き溜まりであったといわれている。
 慈円にしてもツテやコネで頼ってくる親戚縁者たちを仕方なく弟子として引き受けていたのが実情であり、親鸞もその例外ではなかった。高貴な身分の出ならば親鸞慈円の稚児(ちご)として目をかけられたかもしれない。しかし藤原家の末流、日野家の貧乏貴族出身である親鸞は、慈円に預けられて幾日もたたないうちに比叡山無動寺の大乗院へ送り込まれた。親鸞わずか九歳のときである。
 大乗院は慈円の門弟養成道場だったが、おそらく慈円自身が親鸞らを直接指導することはなかったと思われる。親鸞はまだ年端もいかない小僧であったし、身分も違いすぎた。
 それから十年ほどたって、慈円親鸞の噂を耳にはさんだことがある。
 おそろしい天才がこの山にいるという。十一歳にして天台四教義・小止観・三大部を極め、十四歳で倶舎唯識百法を読破した喝食(かつじき=寺に仕える小僧・稚児の総称)がこのたび、十九歳にして天台止観の教科を終了したというのだ。慈円はその話を、かれが初めて天台座主になったのを祝う席に集まった僧侶たちの口から聞いた。
 「わしが座主についた同じ年にその者が止観の教科をおさめたのも何かの縁。して、その小僧の名はなんと申す?」
 慈円が機嫌よく問いかけると居並ぶ高僧たちは驚いたように互いに顔を見合わせた。慈円がからかっていると思ったのだろう。大律師のひとりがお追従笑いを浮かべてこう答えた。
 「座主さまの道場の範宴でございますよ。さすがは慈円さまのお弟子だと、わたしども一同、感服しておるのでございます」
 「範宴か」
 その名を聞いて慈円は浮かぬ顔つきになった。
 慈円は比叡における密教部門の教授であった。が、親鸞慈円から得度を受けたにもかかわらず密教祈祷僧の道を選ばないで浄土観想を研鑽する止観の道に進んだのである。これを師の慈円が快く思うはずがなかった。
 恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が『往生要集』を永観三年(九八五)に著して以来、浄土(極楽)を心の中に思い浮かべて心身を清浄に保つ浄土観想の止観行が天台僧侶たちのあいだで流行し、慈円の専門とする顕密の遮那行(しゃなぎょう)は影をひそめていた。
 そればかりではない。慈円の異母兄である、時の摂政・関白九条兼実までが、宮廷の噂でもちきりの念仏僧、法然源空(ほうねんぼうげんくう)に帰依(きえ)したいと言い出す始末だった。慈円にしてみれば、比叡を捨てて俗界に下った無位無官の乞食坊主ごときに、朝廷の最高行政官である摂関家の長が結縁(けちえん)するなど論外のことだった。慈円は、せめて弟のわたしが天台の座主である間だけは、そのような軽挙妄動をつつしむよう、兄を強くいさめていたほどである。
 いずれにせよ、慈円にとって腹立たしいのは浄土教であった。
 慈円は、円仁(えんにん)が唐から持ち帰った浄土教阿弥陀仏が天台仏教を二つに分裂させてしまったと考えている。これまで大日如来(だいにちにょらい)一仏を尊仰してきた比叡において、それ以来、諸仏混交の仏教が平然と行われるようになったのだ。
 慈円の冴えぬ顔色から「そのこと」に思い至った僧たちは、ほぞを噛むように一様に押し黙ってしまった。
 下界の政争を反映して比叡の座主は猫の目のように変わる時世だった。平家が滅んで源頼朝が入洛すると同時に座主になった慈円も政変次第でいつまた更迭されるかもしれない。前天台座主の明快上人のようにおおっぴらに念仏を讃える僧侶も多かった。ここで慈円に取り入って軽はずみな仏論を口にすると後々の我が身に響いてくる。場はいきおい静かになった。
 せっかくの祝席を白けさせては大人気ないと思ったのだろう、慈円は沈黙を破っておだやかにこういった。
 「いや、わたしは心配しておるのだよ。範宴をな」
 僧侶たちはそれを聞いて、ほっと息をついた。少なくとも慈円の口ぶりに皮肉や諧謔(かいぎゃく)はみられない。
 「あの若者はたしかに優秀だ。わたしもそれを認めるにやぶさかではない。だが僧侶にとって大事なのは知識だけではない」
 天台座主が何を言わんとしているのか、言葉の裏を探るような眼差しを僧侶たちは慈円に注いだ。
 「止観の教科を終えた範宴はこのあと止観行に挑まなければならん。しかし、これは頭や知識でどうなるものでもない。そのことは他ならぬこのわたしが身にしみて知っておる。範宴が教科に優秀なだけに、これから始まる止観行がつとまるかどうか、わたしは心配しておるのだよ」
 なるほど座主さまのおっしゃるとおりだと、一座にどよめきが起こった。比叡山無動寺で千日入堂の荒行を修め、若くして阿闍梨となった慈円にしていえる言葉だということはだれもが承知していた。
 「範宴も行を克服してこそ一人前。行を為さぬ僧侶はいくら知識を積んでも無に等しい。それが天台の定法(じょうほう)だということを忘れておりました」法眼の地位にある僧侶が慈円に感銘を受けたかのような大きな声で応え、皆が頷いた。
 それから十年がたっている。
 慈円は四十七になっていた。六年前に実兄、九条兼実が失脚して慈円天台座主の地位を退いたが、和歌を通じて一生の友となった後鳥羽天皇の強い意向によって慈円は今また天台座主に返り咲いていた。建仁元年のことである。
 慈円はお供を連れて親鸞が運ばれた聖光院への山道を下っている。知識だけではどうにもならぬ、という慈円親鸞に対する危惧は慈円が比叡を離れていたこの六年のあいだに現実のものとなっていた。親鸞は二十九歳にしてまだ凡僧(ぼんそう)にすらなっていなかったのである。
 天台宗の僧侶は修行の成果を認められると仏になる資格を与えられる。その儀式を灌頂(かんじょう)という。灌頂の式を終えると僧橋(そうぎょう)の地位につくことができる。法印、法眼、法橋といった僧侶の地位である。
 ところで凡僧というのは灌頂式は終えているものの、まだ僧位につけない駆け出しの僧侶のことだが、親鸞はいまだその凡僧ですらなかった。齢三十ちかくにもなりながら十年前とまったく変わらぬ無資格な雑役夫同然のただの堂僧(どうそう)だった。
 親鸞が止観の教科を卒業して次ぎの段階である止観行に入ったことは先に述べた。だが、このとき予想もしなかった陥穽(かんせい)が親鸞を待ち受けていたのである。止観行は天台宗開山最澄の『山家学生式』(さんかがくしょうしき)にのっとって行われる。親鸞が進んだこの修行の目的は阿弥陀如来の姿を眼前にしかと見ることにあった。これを常行三昧(じょうこうざんまい)という
 常行三昧とは九十日のあいだ常行堂にこもり、阿弥陀如来像の周りを巡り歩きながら不眠不休で念仏を唱え続ける行である。その結果、阿弥陀如来が修行者の前に姿を現わすと信じられていた。したがって修行者が見仏を果たすまで行に終わりは無く、もし九十日の三昧行を終えても見仏がなければ、体力の回復を待って再び同じ行に挑むことになる。これが当時の天台の止観行であった。
 親鸞はこの十年、それを繰り返していた。つまりかれは苦行の果てに、何度も気を失う生死の境をさまよいながら未だ阿弥陀仏を見ることが出来なかったのだ。そのあいだに、親鸞よりも若い堂僧たちが、いともやすく見仏を果たして灌頂式を済ませ、一人前の僧侶となって出世していったのだった。
 慈円が「虚仮!」と吠えたのはそのような親鸞の愚直さに対してだった。蝉しぐれが降る早朝の山道を急ぎ歩きながら慈円は怒りというよりもほとんど恐怖を覚えていた。
 (あやつ、天台一宗をつぶすつもりか?)
 口には出さないがそう思っていた。
 もちろん、仏教の超俗的な権威を背景に、権力と武力を併せ持った大伽藍(だいがらん)が一介の喝食によって微塵もゆらぐものではなかった。
 だが、十年の止観行を修してなを見仏を果たさない僧侶がいるということは、ひとつ間違うと天台教義、とりわけその行を根底から疑うことになりかねなかった。目の上のタンコブである円城寺(三井寺天台宗寺門派総本山)とは血を血で洗う抗争中であるし、南都六宗はいつでも天台の寝首をかかんと窺っている。まして親鸞は形式とはいえ慈円の直弟子である。ことは天台の屋台骨を揺さぶるだけではなく座主慈円の沽券(こけん)にかかわることでもあった。
 三昧行の途中で倒れた親鸞の運ばれた聖光院は堂僧の屯所で、西塔常行堂最澄廟所を結ぶ細い山道のちょうど中ほどにあった。僧兵に警護された慈円が姿を現すと聖光院の門前にたむろしていた若い堂衆たちはクモの子を散らすようにどこかへ姿をくらました。代わって堂内から急いで現われたのは、のちに専修念仏に帰依して法然親鸞とともに「承元の法難」(専修念仏弾圧)に遭うことになる聖覚だった。だが、この時期の聖覚は比叡に無数にあった屯所の一責任者でしかなかった。
 飢饉、疫病、戦禍、天災のたび重なる惨禍のあおりを受けて喜捨(きしゃ)もなく、修繕もままならない聖光院の堂内は思った以上に荒れ果てていた。聖覚が慈円を案内したのは蜘蛛の巣の張った薄暗い庫裏(くり)である。床は板敷きで、その一隅に草で編んだムシロが敷かれ、そこへ褌(ふんどし)姿の親鸞が横たえられていた。
 薄暗がりの中、胸骨をあらわにして枯れ木のように横たわっている親鸞にはまったく生気が感じられず、魂の抜け去った骸(むくろ)のように慈円には映った。
 (哀れな…)
 これが二十年前、京の私邸、白川房で出会ったあの才気活発な稚児の成長した姿なのかと思うと急激に襲ってきた不憫(ふびん)の念に慈円は吐胸(とむね)を衝かれた。
 親鸞の乱れた髪は耳まで伸びている。
 親鸞が「愚禿どの」と若い堂僧たちから陰で呼ばれていることを慈円は側近から聞いて知っていた。常行三昧に明け暮れる親鸞はやもすると頭髪が伸び放題になって耳元まで垂れ下がることがあった。それをさして比叡の童子たちは「愚禿どの」と陰で嘲笑ったのである。
 後年、親鸞は「承元の法難」に連座して越後へ配流される。そのとき、このあだ名をもって自ら「愚禿」と称するのだが、「禿」とは「かむろ」のことである。当時は童子が額と肩に切りそろえた髪のことを意味していた。還俗を強いられた越後での親鸞は髪を伸ばしていたと伝えられている。親鸞が自ら愚禿と称したのはそのためだろう。しかし比叡の喝食たちから「愚禿どの」とかれが馬鹿にされていたのは剃髪する暇がなくて髪を伸ばしていたばかりではなかった。要領が悪すぎるのである。
 修行僧のなかには行の苦しさに耐えかねて、あるいは、死を賭するのがばかばかしくなって、見もしない仏を見たといって止観行を終了していく者もいたのではないかと思われる。幼い堂僧たちはもともと菩提心や隠遁を決意して出家したのではなかった。お家の事情によって、とにかく「食う」ための方便として頭を丸められたのがほとんどだったといってよい。かれらには死を覚悟してまで行をまっとうするいわれはなかった。従って自己申告制だった止観行の見仏の是非には、どうしても自己欺瞞の誘惑がつきまとっただろうと思われる。親鸞もその誘惑と闘う一方、簡単に見仏を果たして出世していった同輩に対する疑念に苦しんだに違いない。だが、親鸞はかたくなに仏の現前を信じた。成果が得られないのは阿弥陀如来の己に対する試練であると考えた。その代償が齢三十ちかくにして、せいぜい聖光院の火元番という雑務を与えられているだけのみじめな人生だったのである。幼少から厳しい現実を耐えて生き抜いてきた堂僧たちの目から見れば、親鸞の振る舞いは鼻持ちならない愚鈍な自己満足の発露としか思われなかった。
 (おろかな…)
 止観行の過酷な厳しさは千日回峰をまっとうした阿闍梨でさえ尻込みするといわれている難行中の難行だ。一室に閉じこもり、念仏を唱えながら果てしなく如来像の周りを回る。独房での孤独で単調な歩行が三ヶ月も続く。おそらくこの十年、こやつにとって比叡は地獄の日々であっただろう、と慈円は思いをめぐらせた。
 盛夏とはいえ比叡の秋の訪れは早い。どこから入ってきたのか赤トンボが格子窓から射す光に照らされた親鸞の額の上に飛んできてとまった。そのとき、死んだように眠る親鸞の横顔が一瞬、神々しいばかりに清浄な印象をもって慈円に迫ってきた。
 (これは!)
 慈円は予期せぬ己の心の動きにひるんだ。
 まさか一介の喝食の姿に仏の応身を見るなどということは天台座主慈円にとって考えられぬことであった。慈円は目をしばたいて親鸞を凝視した。眼がくぼみ、頬骨が張った無骨な修行僧のやつれた顔がそこにあった。
 (やはり、錯覚か)
 慈円は安堵した。
 仏教の戒律を守って慈円は妻帯せず、当然子供もいなかった。が、もしいたとすればちょうど親鸞ほどの年頃になっていたはずである。一瞬だが慈円親鸞にわが子を前にしたようないつくしみを覚えた。と同時に、なぜか怒りがよみがえってきた。
 (こやつはいったい自分を何様と思うておるのだ?)
 衝動的に慈円は汗と埃で汚れた親鸞の木偶(でく)のような身体を強くゆすっていた。
 「これ、範宴! 起きるのじゃ!」
 周りの者たちは呆気にとられた。
 親鸞はそれでも、束の間の安息をむさぼるかのように精根尽き果てて眠っている。
 「座主さま、薬湯(やくとう)をおもちしました」
 院主の聖覚が気を利かせて、木製の器に入った芳香の強い気付け薬の一種を堂僧に運ばせてきた。入唐僧が中国から持ち帰った様々な薬草を調合して煎じたものである。慈円はその椀を受け取ると器を自ら親鸞の口もとに運び、少しずつ飲ませた。煎じ薬の強烈な芳香があたりに漂う。
 ややあって親鸞は薄目を開いた。
 「座主さま…?」
 「範宴、気がついたか」
 親鸞は屈みこんで自分をうかがっているのが天台座主であることが信じられなかったようだ。朦朧とした目をまたつむった。
 「これ範宴、目を覚まされよ。座主さまが行の証果を見届けにわざわざおいで下さったのじゃ」
 聖覚が親鸞の耳元に告げた。
 「慈円さまが…?」
 ふたたび目を開いた親鸞はあわてて起き上がろうとした。が、骨を折るように上体が砕け、聖覚の腕の中に落ちた。
 「範宴、無理をするでない。そのまま安静にしてよく聞くのじゃ」
 慈円はいった。かれは親鸞の意識がさだかでないうちに有無をいわさず事を収めてしまいたかった。つまり親鸞の見仏発得を既成のものにしてしまおうと考えたのだ。親鸞さえ頷けば慈円には見仏を認定する権限がある。慈円はもはやこの若者をこれ以上、放っておけなかった。
 「答えるのじゃ、範宴。阿弥陀さまが現れたのじゃな」
 「阿弥陀如来……」
 「そうじゃ、見たであろう? 倒れる間際に」
 畳み掛けるように慈円はいった。
 親鸞は歯を喰いしばって泣きそうな表情になった。慈円親鸞のそんな顔をみていられない。しかし、見なかったなどという返答は許さぬという厳しい眼差しで親鸞を睨みつけた。
 「わたしは…」
 「何と?」
 「わたしは、もう駄目です」

            2

   ア、ソレ愚禿親ランノ
    教ヘヲツラツラ慮ヘルニ
   絶対自己ヲ否定セル
     オロオロ道ヲユクナラン
   正シキ者ハ人ノ世ニ
    必ズ功ヲ得ルナリト
   少シモ彼ハ言ワナクニ
    タダミズカラヲ殺セトフ
           (吉本隆明親鸞和讃』中段)



 おろおろとした足取りで親鸞は比叡から京の白川に通じる坂を下っていた。
 夜更けである。足元はおぼつかないがこの坂は通称雲母坂(きららざか)といわれ土質に雲母を含んでいる。月の光に照らされて輝く雲母のせいで坂道は荘厳な美しさに満ちている。だが親鸞の気持ちは幽玄な山の神秘を感じているどころではなかった。
 親鸞は捨身を決意していた。
 捨身とはひらたくいえば自殺のことである。ただ仏教的な捨身の言葉の意味するところは単なる自殺ではない。岩波書店の『広辞苑』によれば捨身供養とは「修行のために、身を三宝に供養し、飢えた虎、狼、獅子などに与えること」となっている。もともとは己の身肉を飢えた衆生に恩恵する苛烈な犠牲的行為をいった。親鸞はこのとき我が身を洛中に徘徊する飢えた野犬に食らわせて死のうと考えていたのだ。あまりにも自分がふがいなかった。十年の修行をしてなを見仏が果たせなかっただけではない。蛇蝎(だかつ)のような奸詐(かんさ)の心で同輩や師を見ていた己がいやになったのだ。
 ほかの者たちも自分と同様、ほんとうは阿弥陀なんか見ていないのに、見たと言いつのっているのではないか? そう疑い続けてきた自分がほとほと嫌になった。自分には仏弟子になる資格はない。もうこれ以上生きていても無駄だ。そのため親鸞はこの三ヶ月のあいだ六角堂に参籠(さんろう)していた。夜更けに山を降り、六角堂の周りで乞食や非人に混じって眠るのだ。それはいつ飢えた野犬に襲われてもかまわない覚悟の上の行為であった。
 ところがこの三ヶ月間、親鸞は野犬に襲われることもなく、群盗に狙われることもなかった。
 (これはいったいどうしたことだろう?)
 親鸞は昨年の暮れ、無動寺大乗院にて修行していたおり、夢の中に如意輪観音があらわれてお告げを受けたことを思い出した。
 《汝ガ願ハマサニ満足シ、我ガ願マタ満足ス》
 親鸞はこれを観音さまが自分の捨身というささやかな願いを聞き届けてくれた証というふうにうけとった。しかし、それすら今になっても叶わぬではないか。親鸞はお告げに不審を抱いていた。わたしのあまりにものふがいなさに観音さまも見捨てなされたか?
 身も心もぼろぼろになった親鸞のおぼつかない歩みは洛中に入ってきた。百鬼が夜行するといわれる都である。人肉を野犬が食らい、六角堂にはいつも死んだ幼児が無数に捨てられていた。それというのも、この当時の六角堂が聖徳太子信仰の場というより、死者の再生のための籠もり堂として民衆の信仰を集めていたからだった。亡くなった我が子が生き返ることを願って人々はここにワラをもすがる思いで子を捨てにきたのだろう。親鸞がこの堂に日参したのも、ここで捨身して、もう少しましな人間に生まれ変わりたい願望があったからかもしれない。
 六角堂のちかくに前の関白、九条兼実の屋敷がある。兼実は摂政を退いて後、法然源空のもとで得度をうけ念仏者になっていた。法然がたびたび訪れるというその兼実の屋敷の土塀に沿って多くの河原者や清目が路上生活を送っていた。親鸞はそのものたちの姿も目に入らないほど虚ろな意識でそこを通り過ぎようとしていたのだが、突然ひとりの女から声をかけられた。
 見ると今年の春から親しく口を利いている三十前後の河原者の寡婦(かふ)である。痩せ衰えた親鸞がおぼつかない足取りで毎日のように六角堂に参籠しているのをみかねて、干した山芋や粟などをなにかにつけて喜捨してくれる女だった。
 「あっ、あなたでしたか...。どうかなさったのですか?」
 親鸞は女の顔色がさえないことにすぐ気がついた。
「むすこが...倒れました」
「あの子が!」
 名前は知らないが女には九つくらいの男の子がひとりいた。活発で底抜けに陽気な明るい子だった。親鸞はその子と逢うたび一言二言冗談を交えるのを楽しみにしていた。その子の姿がなるほど見えない。いつも母親にくっついていた子なのだ。
 親鸞は息せき切っていった。
 「病いですか?」
 女は無言でうなずく。闇の中でもそれとわかるほど涙を浮かべて月明かりに光っていた。
 「すぐに山へ戻って万病に効くといわれる薬草をもってまいりましょう」
 親鸞がそう答えると女は蒼ざめたまま力なく首を横に振った。
 「いえ、お坊さま。あの子は、もうだめです」
 今にも倒れそうに前のめりになった女の腕をあわてて親鸞は支えた。
 「どうしたのですか!?」
 この時代、都では高熱を発するマラリヤや、「はやて」といわれる小児性赤痢が流行していた。もちろん、当時としては不治の病である。女の夫も、いまでいうマラリアを発症して死んだのだ。
 「もう、手遅れなんです。わたしにはわかります」
 「しかし、それでは…」
 親鸞は困惑した。「それではあなたは手をこまねいてあの子を放っておくのですか?」
 「お坊さま」
 不意に女は親鸞の胸元を掴んできた。意外に強い力で親鸞の下衣の胸袷を両手で握り締めると、激したように訴えてきた。
 「お坊さま、あの子は脅えています。九つでも、もう死ぬことの意味を知っているのです。どうかあの子を安らかに死なせてやってください。どうせ救からないのなら、せめて死の恐怖をとりのぞいて、安心させてやってくださいまし」
 予想外の女のことばに親鸞は困惑した。
 安心して死を迎えさせる? 死の恐怖を拭い去る? 親鸞はかつてそのような仏法を修めたことがなかった。ただただ己が精進のため、この二十年間、仏教の知識を仕入れ、過酷な行に鎬(しのぎ)を削ってきたのではないか。他者の安心、とりわけ衆生の生死のことなど眼中になかった。だが、仏につかえる僧侶の功徳を素直に信じて、すがりついてくる女のためにも、出来ぬとはいえない。口ごもりつつ親鸞はこういった。
 「わかりました。とにかく…会ってみましょう」
 女のあとについて行ってみると童子はすでに六角堂裏の子棄ての場所に、地のまま寝かせられていた。そこは死と再生の信仰がなされている異界でもある。
 親鸞が母親と一緒にやってきたのを知ると、身動き取れない重病でありながら少年の顔は清らかに親鸞に向かって笑いかけた。しかし親鸞はその弱々しい微笑の陰で必死に死の恐怖と闘っている子供のけなげな意志を感じ取った。
 それを見てはじめて親鸞は、救ってやりたい! この子の恐怖を取り除いてやりたい! と痛切に思った。なるほど医者もなく薬もないこの時代、唯一の救いは眼前の子の心を平安に保たせてやることしか他になかった。母親もそれを望んでいる。
 だが、親鸞は病んで孤独に死と闘っている子供を前にして一歩も動くことができなかった。考えてみれば唯識百法を読破した親鸞にしても何一つ、死を前に打ち震えている少年に向かって語りかける言葉がなかったのだ。
 何ひとつ……。
 一秒が一時間のように思え、身も心も冷え切って石になったかのように感じられた。病んだ子も、心痛の母親も時がとまったかのように動かないで親鸞を見上げている。ああ、おれは無力だ。このまま死んでしまいたい。親鸞がそう思ったとき大乗院での夢告がよみがえってきた。
 《善イカナ、善イカナ、汝ノ願マサニ満足セントスル》
 何が、満足せんとする、だ。親鸞の眼から大粒の涙がこぼれ出た。わたしは今また無力ではないか。どうすることもできず棒っ切れのように突っ立っているだけではないか。
 そのとき背後で野太い声が響いた。
 「わたしにその童子とお話をさせて下さいませんか」
 振り返ると弟子を二人従えた黒墨の衣の老僧がにこやかな笑を浮かべて立っていた。親鸞は声も出ない。よろしいかな? と問う老僧に親鸞は阿呆のようにうなずいた。老人は地面に横たえられた童子のもとへゆくと屈み込んで、その頬を両手でやさしく包んだ。
 「坊や、苦しいかね?」
 童子は澄んだ瞳を老僧に向けたままかすかに首を横に振った。
 「いい子だ」老僧は静かにそういった。
 「さて、よくお聞き。これから坊やがゆくところは一人ぽっちのところじゃないんじゃ。おまえのお母さんも、わたしもいずれは行くところでな、ジョウドというんじゃ。わかるかな?」
 もちろん年端もいかない子供に浄土の意味は分からなかっただろう。しかし言葉ではなく老僧の声にこもった何かが少年の心を動かしたようだった。
 「お母さんもあとから来るの?」
 「そうだよ。坊やはいつでもお母さんと一緒なんじゃ。ただ、坊やのほうがちょっとばかり先にジョウドへ行くだけなんじゃよ」
 「どんなところ?」
 「とても楽しいところじゃ。お花畑があって、清らかな小川が流れている。戦(いくさ)もない。人殺しも居ない。そこにはたくさんの山の実があって、おなかを減らすこともないんじゃ」
 「ほんとう?」と童子は初めて弱々しく笑った。
 「ほんとうだよ。坊や、このじいさんのいうことを信じるかね?」
 うん、と童子はすなおにうなずいた。
 「よろしい。それではな、ジョウドへゆくためのおまじないがひとつあるんじゃ。それを言えば、坊やは安心してジョウドへ行ける」
 親鸞はハッとして老僧をみつめた。
 「いいかね、坊や。こういってごらん。なむあみだぶつ」
 なむ、あみだぶつ。童子は瞳を輝かせながら小さくそう呟いた。
 老僧はにっこり笑った。
 「さあ、もう一度」
 今度は老師と老師の従者も子供にあわせて念仏を唱和した。
 月明かりの下、六角堂裏の薄暗がりのなかに幽かな念仏の声が二度三度と響き渡った。
 「さあ、これで坊やはもうジョウドのお客さまになったんだよ」
 老僧がそう囁くと童子は嘘のように平安な表情になって少し微笑んだ。子供の安心が母親には直感で伝わったのだろう。女は地に平伏して老僧を拝んでいる。親鸞は驚嘆の思いで、闇から現れた黒衣の老僧の柔和な横顔を凝視した。もはや親鸞には、その老師が何者であるか明らかだった。専修念仏僧、法然源空その人に間違いなかった。

            3

ア、ソレ愚禿親ランハ
 始末ニ負エヌ人ナリキ
ワレヲ一人デ喜ババ
 親ラン居ルト思ヘトゾ
ワレヲ二人デ喜ババ
 親ラン陰ニソヒナガラ
共ニ居ルコト思ヘトゾ
 少シオロカナ子ナリセゾ
二千六百年代ノ
 巨大ナ知恵モドウシテモ
親ランノカゲ払ウコト
 トテモ叶ワヌコト知リヌ
ア、ソレ愚禿親ランハ
 少シオロカナ子ナリケリ
          (吉本隆明親鸞和讃』後段)



 それから数日後、親鸞比叡山無動寺の慈円の坊舎に呼ばれた。
 建久三年に後鳥羽天皇の護持僧となって以来、慈円は永い祈祷生活に入っている。うち続く天下大乱、飢饉、疫病を調伏せんがため、慈円は朝廷のため国家のための祈祷に命をかけていた。親鸞との会見はその行の合間をぬって行われた。
 夕刻である。
 従者を遠ざけた慈円は純白の九条単衣で親鸞と向かい合った。対する親鸞はほころびのある黒の下衣である。さすがに剃髪はなされ、無精髭もきれいに剃られている。天台座主が一介の堂僧を自坊に呼びつけるということは異例のことであった。親鸞は何事かを覚悟しているのか、神妙な表情の中にも落ち着いたたたずまいで下座にひかえた。
 「吉水に日参しているそうじゃのう」
 慈円はいきなりいった。吉水とは京の東山の麓に法然源空が開いた吉水大谷の念仏道場のことである。吉水草庵の庵主法然慈円とは正反対の仏教観の持ち主だった。慈円の、朝廷、国家、天下のための祈祷中心の仏教に対して法然はだれでも念仏すれば浄土に生まれると説いて近ごろとみに一般民衆の信仰を集めていた。現世の天下泰平を祈る慈円にしてみれば、法然は難渋する大衆の弱みにつけこんで人を冥府魔道(めいふまどう)に迷わす度し難い人物と映った。その法然のもとへ慈円の直弟子である親鸞が最近毎日のように通っていると告げる者があったのだ。慈円には信じられないことである。法然への対抗意識だけではなかった。慈円はこの哀れな若者を本心から救いたかったのだ。
 「どうなのじゃ」慈円は静かな声で重ねて尋ねた。
 「お前は十年間三昧行を続けて見仏を果たさなかった。辛かったであろう。わたしにも覚えがあるが、行の証果がないと、しまいには怨嗟、絶望、自棄、疑念のかたまりになる」 
 だが、と慈円はいった。「わしはおまえを見損なっておったようだ。お前は、はなから雑念を抱いて行に臨んでいたのではないか。我執を捨て、天下国家のためにその身を犠牲にしょうとするのが天台の僧たるものだ。にもかかわらずお前は、自分が浄土にいけばそれでよいという源空の専修念仏をその心に抱いて安心しておる。そんな不純な心構えで三昧にいどんでも仏さまが顕現するわけがなかろう」
 それでも親鸞は黙っている。
 「いつからなのじゃ。吉水に通いはじめたのは」
 親鸞は頭をあげた。
 「座主さま、わたくしは比叡でのこの二十年の教えと修行を心からありがたく思っておるのでございます。しかし、わたしには……この凡夫、煩悩具足の愚かなこの身では、比叡の聖行をまっとうすることはもはや不可能であることを自覚いたしました」
 「捨戒するというのか」
 慈円はうめいた。不遜にもこの堂僧は山を下るというのである。
 「一時の気の迷いでそんなことを軽々しくいってはならん」と慈円は厳しくたしなめた。
 地獄ニ堕チルゾ、と慈円はいった。
 それは脅迫でもなんでもなく慈円は本気でそう思っていたふしがある。
 「お前だけではない。お前をそのような境地に追いやった師のわたしも後悔して苦しむことになるのじゃ」
 諭すようにいった。
 だが親鸞もこのときばかりは傲然と顔を上げて言葉を返してきた。
 「座主さまが苦しむようなことは、ありえません」
 慈円はいぶかった。
 「なぜじゃ?」
 「わたしが山を下るのは……」親鸞は言いよどんだが意を決してこう答えた。「わたしが山を下るのは聖徳太子さまの夢告(むこく)があったからです」
 「聖徳太子さまのぉ…?」
 慈円は素っ頓狂な声を上げた。あいた口が塞がらないというような顔でしばらく親鸞の顔を眺めていたが、やがて身体中の力を抜いてげらげらと笑い出した。その目は親鸞を見直したように見つめている。
 「範宴、お前、無駄に二十年をこの比叡ですごしたのではなかったの」と慈円はいった。
 説明をしなければなるまい。
 この当時、聖徳太子とは聖(朝廷・公家)と俗(大衆)とを結ぶ架け橋のような宗教的存在であった。たとえば律令によって当時の寺院はすべて国家の管理下にあったが聖徳太子を祭る六角堂は民衆によって再建された民衆のためのお寺だった。六角堂で太子は民衆の間に根を下ろしてその鑽仰をかちとるとともに、一方では朝廷・公家のあいだで国家護持の偶像ともなっていた。聖徳太子にみられるこのような両義性を慈円は「真諦・俗諦の二諦一如」あるいは「仏法・王法午角」として己の思想の根底においていた。 
 のちに天台座主を退いた慈円が朝廷に懇請して聖徳太子を祭る四天王寺別当(長官)になったことは有名な話である。
 慈円親鸞の夢告が本当かどうかは関知しない。それより、聖なるものを俗に通じさせる聖徳太子という宗教的存在をこの喝食が持ち出したことに驚愕したのだ。なぜならそれはこの哀れな堂僧が直面している問題を穏便に解決できる唯一の方法だったからである。
 聖徳太子の顕現はひとつには親鸞慈円の弟子として「二諦一如」の奥義をきわめたとみなされる。だから親鸞は弟子として慈円を裏切ってはいないどころか、その真髄を会得したことになる。また捨戒下山にしても、俗にあって仏法に生きよ、という聖徳太子の下命であるとすれば、三昧行で阿弥陀さまが顕現せずに、夢に救世観音の化身である聖徳太子が現れたのは納得できることであった。慈円不本意ながらこの捨戒僧を懲罰することもできた。だが、下山のきっかけが聖徳太子の夢告であるということであれば、無闇に引き止めることも、罪に問うこともできない。むしろ慈円はこれしかないという親鸞の絶妙の応答にほっとしていた。慈円親鸞と同じく幼くして父母と離別し、顔も知らない。一個の人間としては人並みの愛も知らない、互いに悲しい宿業を背負うた命なのだ。その者をして十年間の苦行に身を責めさせ、いままた捨戒の罪を問うて処罰することは慈円には出来ない相談であった。
 (それにしてもこの者は、どこでこのような知恵を身につけたのか?)
 慈円は眼をしばたいて痩せた無骨な青年僧の顔をまじまじとみつめた。常行三昧十年の欺瞞のない真摯な修行ぶりからみて聖徳太子の顕現が嘘だとも思われない。だとすればこの者はほんとうに聖徳太子に救われたのかもしれなかった。
 笑みを消すと慈円は厳しい表情になって親鸞に問うた。
 「範宴、太子さまの夢告とやらを聞かせてみい」
 「はい」
 親鸞は背筋を伸ばすと、聖徳太子の夢告を朗々とうたいあげた。
  行者宿報設女犯
  我成玉女身被犯
  一生之間能壮厳
  臨終引導生極楽
仏道に入って修行する者が前世からの報いで、たとえ女性を抱くことがあっても、わたしが玉のような女性の姿になって抱かれてあげよう。そして、一生の間わたしがその仏道者の身を荘厳に保ち、臨終のさいには極楽に導こう》
(天才か、カタリか?)
 簡潔な和讃調に纏め上げられた、のちに親鸞伝説の有名な挿話となる「行者宿報偈」を聞いて慈円は舌をまいた。
 ただ、慈円も馬鹿ではなかった。親鸞の、女犯を容認する偈文には法然源空の影響があることを見抜いていた。
 法然は『和語灯録』でこういっている。
 《現世をすぐべきようは念仏の申されんようにすぐべし。ひじりで申されずば妻を設けて申すべし。妻を設けて申されずばひじりにて申すべし》
 源空め、と慈円は思った。いたずらに誠のこころを惑わし、己が名利がために無辜の民を地獄に落とそうとしている。奸物許すまじ。
 ややあって、慈円はぽつりとこういった。
 「ひょっとして、お前は女に惚れたのだな」
 親鸞は床に頭を擦り付けるようにしてうなずいた。
 「はい」
 「どのような素性のものじゃ、その女は」
 「洛中の名もない河原者にございます。最近、つづけて夫と子を疫病でなくしました」
 慈円はもうなにをいわれても驚かなかった。
 ただただ眼前の、神仏もおそれぬ若い捨戒僧の八方破れな情熱にある種の羨望のようなものを感じていた。しかし慈円親鸞への共振を顔には表さない。
 「不浄な河原者でも、お前はその女を、一生、観音さまの化身として大事にするというのだな」
 「はい」
 「ほんとうは、その女のために山を降りるのか?」
 「はい」
 親鸞の口調に迷いはなかった。
 「やはりお前はおろかな子じゃ。が、わしはもう何もいわない」
 お前の好きなようにするがよい、と慈円は静かに言った。
 「座主さま」親鸞の目はうるんでいる。
 「範宴、師とは名ばかりでお前には何もしてやることが出来なかった。皮肉なものよの。僧としての栄華を極め、権僧正。法務。護持僧。阿闍梨とはいえ、現実には無力なただの年寄りじゃよ」
 親鸞は床に伏している。
 慈円親鸞に背を向けて拝殿の釈迦三尊像に対座すると、凛とした声で言い放った。
 「範宴、印可を授ける! 今夜中にも、早々にこの比叡から立ち去れい!」
 親鸞はその声に応じてひそかに立ち上がると、読経をはじめた慈円の背に深く合掌した。そして、風のように静かにそこから消えた。 
 後年、親鸞はその主著『教行信証』後序においてこのときの出来事を簡略にこう記している。

建仁辛酉(けんにんかのととり)の暦(とし)、雑行を捨てて本願に帰す》

 年が明けて建仁二年七月、慈円は何故か任にあることわずか一年にして、返り咲いた天台座主の職を自ら辞している。                                         



            [完]


*この小説を今は亡き大谷専修学院院長竹中智秀先生に捧げます。 
たまたま通りがかったお寺のまえの「みどう仏教研究会」の「どなたでもぞうぞお入りください」
という張り紙に誘われて先生の指導される会に入れていただきました。
みどう仏教青年会においては十年近い間、わたしの傍若無人でわがままな、暴言、喧嘩を
黙って飲み込み、すべてを受け入れて下さいました。

いまでも懐かしく想い出します。先生の破天荒なまじめさを。
あるお坊さんの語るところによると
1966年岡崎別院書院から火が出、多くの大切な書物、仏像が焼けました。
そのころ発刊された僧侶でつくる雑誌「願生」のあとがきに
竹中先生がこう書いたそうです。


「もえたもえたもえるものもえた」


これが本山の逆鱗に触れ東本願寺からよびだしをくらった。
そういえば先生は東西両本願寺は、別につぶれてよしというのが持論でしたね。


先生の講釈の際に会員が法論をはじめ、廊下に出てどたばたと喧嘩をはじめても
静かに法話を続けられ、あとで側近が無礼をお詫びすると「ああでなければいけません。
まだまだ足りないくらいです」と帰りがけにおっしゃってくださいました。


研究会の席上、竹中先生を罵倒し揶揄する反論や批判があがると、いつも飛び上がらんばかりに喜び
それこそ真摯なイロニーで受け止め、情熱をこめて間違いを説明をして下さいました。
その懇切丁寧さは周囲がうろたえるほどでした。
東本願寺を代表する理論的支柱である先生が! 一介の素人相手に!
その先生を失いました。かけがえのないこと、というものは、あるものです。
もはや、あのような先生をわたしたちが持つことは二度とありえないでしょう。
この小説は文字通り「先生」であった竹中智秀さんからの賜物だと考えています。


先生、やすらかにお眠り下さい。